第13回 ハンナ・アレント 全体主義に抗うために
はじめに
今回は、この全体主義に抗うためには何ができるか、について話していきたいと思います
【13-1】ナチス、ソ連の政権下で虚構を作り続けた人がバグっていく論理【全体主義に抗うために】
陰謀論は一部事実を使うからこそ真実に見える
全体主義のイデオロギーも、全くの虚構では人を動かせない
人を騙すためには少し真実が必要というように
人を運動に巻き込むためには、虚構の世界と現実とを繋ぐひとかけらの事実が必要
ナチスにおいては、それがユダヤ人の金融業界における汚職だった
ロスチャイルド家をはじめとするユダヤ系財閥が、金融などを通じて政府や経済に影響力を持っていたのは事実 パナマ運河を巡るスキャンダルや、違法行為、脱法行為に新規参入のユダヤ人ブローカーが手を染めていた
ロスチャイルドのような特権階層はやってない
これらの事実がユダヤ人の陰謀というストーリーにリアリティを与えることとなった
今日の格差拡大も陰謀論の豊かな土壌となるだろう
事実の完璧な抹消は不可能であるにも関わらず、永遠の無駄な努力が必要になる
第二次世界対戦中にドイツ軍がドニエプル川上流のスモンレスク州を占領していた時期に応酬したソ連共産党の組織文書 スターリンは実権を握る前に、様々な歴史や記録などの文書の削除や名前の書き換え、文書の書き換えなどを行なっていた 一つの事実を隠すために、嘘を作り、その嘘がさらなる嘘を呼び、虚構の上に虚構を積み重ねる
しかし、状況が変わったらその努力も砂上の楼閣のように崩れ去り、あた新しいものを構築せねばならない
隠蔽の努力の先に待つのは、真理を認めないシニシズム(冷笑主義) 真実が消され、嘘を完全に真実として受け入れることが強制され、それを無限に積み重ねていくと、人は、方向感覚がバグる
事実とされたことが何の説明もなく否定される状況では、「本当のことなど何もない」というシニカルな態度が蔓延する 吉本隆明もある種似たような状態に陥っていた?
シニシズムに陥ると、拠り所がわからなくなり、怖くなる シニシズムから生まれるのは、一切の方向感覚の喪失である
何も信じない、ということは、何も拠り所がない、ということである
真実と虚偽という基準それ自体を拒否してしまうと、何もわからなくなる
本来事実はそこに厳然としてある、そのことだけで自分の立ち位置と方向を示す手掛かりとなる
怖いからこそ、陰謀に屈してしまう
相互作用の中で人間の行為によって生み出された事実は、その予測不可能性、意外性ゆえに単純な説明を受け付けない
原因を考えてもわからないので、都合の悪い事実は無視してわかりやすい説明やイメージに飛びつこうとする
これが陰謀であり虚構の世界である
何を言われても、事実を拠り所にせよ
しかし、どんなにそれっぽく虚偽の説明を重ねても、怒ってしまた事実を無かったことにすることはできない
そして、どんな抗弁も受け付けない「事実」の存在こそが、全体主義の「虚構の世界」に絡め取られないための確かな足場を与えてくれる、全体主義に抵抗する拠り所になる
【13-2】事実の弱点。事実は面白くもないし、中立の立場で保証できる人はほとんどいない【全体主義に抗うために】
事実は強いが、事実の証明には弱点がある
事実であることが認められるためには、証言が必要である
それは事実が「真理」であるために、本質的には相容れないはずの多数決によって決められる、ということである
政治的思考について考えてみる
もちろん、政治の場における多数決は単なる数合わせではない
そこには討論を通じた説得と納得のプロセスが不可欠である
一人一人が行為の連鎖の結果として千差万別の意見を持っている
だからこそ、他人を説得して支持を獲得し、合意を形成することが必要になる
ではどうやるか?
政治的思考は代表する
他人の感情に対する安易な共感をするのではなく、他人の意見をそのまま受け入れるのでもなく、自分の意見を押し付けるのでもなく、想像力を働かせて相手の立場に身を置き、幅広い視野から問題を検討することによって、自分の意見を形成する
そうして形成された意見が、多数の支持や同意を獲得できる、そのような意見の形成過程によって政治は動く
これは前に述べた判断力である
しかし、不都合な事実を語ることは非常に難しい
その意見の土台となる、事実の真理を語ることは非常に難しいのである
なぜ難しいか?
第一に、事実は何の説得にもならないし、面白くない
例えば、政治で有効自由や正義、名誉や勇気といった性質は他人を説得する上で、哲学や宗教の真理には劣るけども、有効である
しかし、事実の真理は、人を説得したりこぶできる内容はなく、それ自体はただの事実であり、何の面白みもない
しかも、複数の人間の行為の絡み合いの結果として起こる事実は、一歩間違えれば違っていたような、普通ならありえなかったようなもの
そんな事実が、自分にとって都合が悪いのなら素直に受け入れることはないだろう
それよりも、人は耳障りのいい虚偽の説明を好む
第二に、誰もそれをできる人がいない
そもそも事実に目を塞ぎたがる人々や、事実を語る人間に敵意をいただくような人々に伝えることは難しい
たまたまその場にいた目撃者程度であれば、わざわざ証言台に立ち、反感を買うのは嫌だろう
その事件などによって被害を被った人なら勇気を持って発言できるだろうが、自分の利益から言ってるだけだろう、と言われてしまう
仮にニュートラルな証人が、説得力のある熱弁をしたとしても、それは弁士としての能力として評価されるだけだろう
一方で、不都合な事実を否定することは簡単だ
証言の真実性や、証人の誠実性に触れなくてもいい
ただ、「それはあなたの意見でしょう」でいい
それってあなたの感想ですよね?
事実の有無についての問題についても、「見解の相違」という意見の問題に解消すればいい
【13-3】SNS、メディアなどでの情報収集は思想形成。政治に近いところで事実を守るジャーナリズム【全体主義に抗うために】
事実を取り扱うことは難しいからこそ、真理は政治とは根本的に異なるので、完全に切り離して考えるべきである
事実の真理とは、複数の意見や立場の相違を前提とする政治における討論とは根本的に対立している
プラトンにはじまる哲学が根本的なところで政治に対して批判的・懐疑的な立場をとっていた理由も同じで、絶対的な真理を求める哲学と、複数の意見の存在を前提とする政治との間の根本的な対立に基づいていた 哲人王とかの思想のことかな
事実の真理も、それが起こった事実としての唯一の真実なのだから、政治の意見に影響されないように、明確に領域を区別するべきなのである
多数決で決定するべきものではないし、矯正によって真理が抑圧されたり歪曲されたりしてはならない
これらを切り離すための機関として真っ先に思い浮かぶのがジャーナリズムの担い手としての報道機関だろう
これらは、我々の生きる拠り所としての事実を伝える
しかし、情報を集めて多くの人に提供するという仕事自体が政治の世界に特質的に関わってしまう
これは仕方のないことで、相互作用の中の行為としての政治のなかで、速報としての情報を得ようとするためには、官僚や政治家からの意図的なリークや賄賂などの腐敗のリスクを背負っている
その意味で、ジャーナリズムは取材と報道を通じて、政治という営みの中に巻き込まれている
そのため、政治から独立することは困難である
この中で独立を可能にするためには、一定の距離を保てるだけのネットワークと組織が必要となる
政治の奴隷にならないように、それに対抗できるだけの大きなものが必要ということだろう
本来は、非政治的で中立的な機能を果たすことで報道機関は政治にとって重要な寄与をなすことができる
アレントによると、自由主義的な立憲国家とは、体制の安定的な機能のために、メディアなどの中立期間の保護を政治的に選択した体制のこと 【13-4】人文学・歴史学の重要性とは?政治とは完全に独立した事実を守るアカデミズム【全体主義に抗うために】
ジャーナリズムが政治と近いところで行われている行為であるのに対して、政治とは明確に異なる立場に立脚して「事実の真理」を追求するのがアカデミズム 事実が示す証拠に基づいて物事を探究する、という任務からして、アカデミズムは事実の真理の第一の擁護者である
もちろん現代の問題の解決や、発展に自然科学や社会科学が大きな役割を果たしているのはいうまでもない
にもかかわらず、アレントはなぜ歴史や人文学が事実の真理の担い手として重要と話しているか?
統計が有効なのは多数のデータが長期的に存在して、そこに法則性を見出せるものだけである
そこでは、行為や出来事は統計学的な偏差や揺らぎとなる
そのため、経済学は、人間が社会的存在として一定の行動パターンを行うようになったことで、科学としての性格を主張できるようになった
そこから外れる人を社会的ではない異常な人として度外視できるようになった
またそのような外れ値的なものは、理論の邪魔になるので、無視されたり、改竄されたりする可能性を秘めている
しかしながら、歴史のなかで一つの時代の持っていた意味を照らし出すのも数少ない出来事によってである
歴史的な出来事をもたらしたのは、人間の「行為」であり、万人に当てはまる画一的な「行動 (behavior)」ではない。政治的に意味のあるもの、歴史的に重要なものを生み出すのは、「行為 (action)」だというのがアレントの主張
そのため、そのような歴史的な行為を事実の立脚点として、事実の真理を探究していく歴史や人文学は、政治において重要なアカデミズの分野なのである
行為に意味が与えられるのは、全てが終わった後に、物語作者である歴史家によってである
前の章でも話した話で、相互作用の中にいる人間の行為にやってもたらされる結果は予測不可能性をはらんでいる。
そのため、行為の実行者の意図した結果がもたらされることはほとんどない
その行為の実行者の思いや背景なども一資料として扱い、行為の相互作用の全体を捉えて物語を作るのが歴史家である物語作者のやること
よって、後世の人間が下す公正な判断によってはじめて、彼の行為には意味が与えられ、彼の行為は失敗も成功も含めて人々の記憶に忘れられることなくとどまる
どの時代のどの人間が語るかによって物語はまた変わる。変わるけど、どれも事実の真理なのか?
物語によって「現実との和解」を行うことで、人間はそれを足場として進んでいける
語られることで始めて彼の行為は残されな世界に生きる人間にとって意味のあるもの、理解できるものになる
この結果に正面から向き合い、それを事実として受け入れて初めて、これからを生きるものはその事実を確かな足場として歩んでいける
その担い手が、歴史学や人文学の研究者である。
これは文学においても同様で、それらはあり得たであろう世界を記述する
そして、その事実を語ることで、読者にその意味を考えさせることができ、それによって判断力の土台が養われる
アカデミズムの仕事は、事実の真理とその意味を語ることにある。これは政治に重要な機能であるからこそ、政治とは独立して行われるべきである
【13-5】ナチスを再来させないためには?人間の自由な思考と行為を担保することが重要【全体主義に抗うために】
希望を語り継ぐ
アレントがアイヒマンから引き出したのは、人間の行為に対する希望だった
多くの人がアイヒマンから学もの
人はしばしばアイヒマンの話を知った時に、自分もアイヒマンになってしまう可能性があるという教訓を得るが、それを知ったところで対策のしようがないのが、人間の行為の特徴である
ましてや他人の中にアイヒマンを見出そうとすれば、それは相互告発のシステムの一役を買うことになる
むしろアレントが見出したのは、人間の行為の可能性に対する希望だった
あなたも何か新しいことを始める可能性はある
あなたが行った行為がそのまま意図通り実現することはないかもしれないけど、こその結果として何か新しいことが実現するかもしれない
だからこそ、個装した行為とその結果は物語として語り継いでいかなければならない
物語を語ることも人間に与えられた能力である
しかし、それを究極的に導いているのは「思考」という第4の活動である
思考は、自分が今している活動から一歩退いて、それを眺めることから始まり、そこで自分の中の他者との対話が生まれる
自分も相互作用の中に身を置く存在でありながら、ある人間の業績について、その意図や目的、失敗や過ちなども含めた結果について語ることは、その行為の意味について思考している、ということである。
そして、そうして伝えられた物語は、今度は受けての思考を促し、ひいてはそれが新たな行為の可能性を開くかもしれない
全体主義の可能性を取り除く
異なる一人一人の人間の意志によって行われる行為は希望であり、それを語り継いでいく必要がある
行為の予測不可能性があることで、一方的に矯正しようとする全体主義は最終的には失敗する
どんな巧妙で強制的な支配であっても、一人一人の人間の活動を思い通りに操作することはできない
人の素質や性質、置かれた条件が異なる人間たちが予測から外れた行為を行い、その支配に異を唱える
だからこそ、我々はその人々の行為の記憶を新たな可能性への希望とともに語り継がなければならない
人々の自由の可能性は危険と隣り合わせだが、そのリスクをとりつつ全体主義から逃れなければならない
全体主義の再来の可能性を取り除くためには、全体主義が破壊した人々のつながりを禍福し、人間が自由に行為をできる空間を作り出さなければならい
しかし、人間の自由な可能性にはそれ相応のリスクを含んでいる
しかし、それを分かった上でやるべきなんだろう
人々が自由に行為を行える運動の空間を安定的に確保するためには、全く新しい政治の仕組みが必要である
破壊されたこれまでの伝統やイデオロギーに頼らず、従来とは全く異なるやり方で、人々の様々な活動を結び合わせていくこと 人間にはそうした新しいことを始める能力が備わっているはずである